1.黒ファイ演繹 1-9 破魔の刀

気づくと外はすっかり暗くなっていたので、ファイは大家にお礼を言って家に帰ることにした。


新月の夜の空は、とても静かで真っ暗だった。

帰る道すがら、闇に浮かぶ蛍火が幻想的に揺れる様に引き込まれ、儚い夢をもう一度振り返りたい衝動に駆られた。

しかし、出かける前の様子から、黒鋼がイライラして待っている事が予想できた。

早く家に戻って夕食を作らねば。

ファイは、夏草が茂る小道を家へと急いだ。

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その夜、二人はいつもどおりに向かい合って無言の夕食をとった。

黒鋼は昼間よりさらに不機嫌で、容赦なくファイを睨みつけていた。

いつも通り振る舞っているつもりらしい魔術師は今にも壊れてしまいそうに見える。

(だから一人で行くなと言ったろうが。あのバァさんは…普通じゃねぇ。)

黒鋼は憎しみを込めるかのように咀嚼して無言のまま空になった茶碗をファイによこした。

ファイはそんな黒鋼から目をそらしておかわり分をよそった。

(帰りが遅くなって悪かったけど、そんな顔で見ないでほしな。ご飯がまずくなりそうだよ。)

茶碗を手渡そうとしたファイと黒鋼の手が触れたとき鋭く低い声が響いた。


「お前、何があった?」

「???」

「…聞いても栓ねぇか。」

もともと二人に会話は成り立たないのだった。

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不機嫌な忍者との気まずい食事のあとに、かたずけや入浴を済ませると、
ファイは追い立てられるように自室に押し込められた。

早く寝ろ、ということらしい。

(強引だなぁ。)

ファイは部屋に入ると低い寝台に仰向けになった。

枕元のろうそくの光だけが頼りなく揺れている。

一人の部屋はとても静かで心地よい。



目を閉じて今日の幸せな夢をなぞってみる。

夢の終りに誰かが笑いかけてくれた気がするのに、それが誰なのか分からない。

思い出そうと意識を集中すると締め付けられるように胸が痛んだ。

(その誰かがファイだったらいいのに。)

でも、それが自分勝手な願いだということはわかっている。

セレスの水底に眠っている最愛の兄弟は、うつろな目で繰り返し裏切り者の自分を責める。

それがファイの見る一番辛い悪夢だった。

早く、この名前を、命を、本物のファイに返せる日が来ればいい。それだけが何者でもない自分の願い。

(今日は、眠りたくないなぁ。辛い夢をみてしまったらもう二度とあの幸せな夢を思い出せない気がする。)

ファイは寝返りを打っていつもどおりうつ伏せになった。

それは無意識に心を悪夢から守るため。


その時、ノックの音と共に蒼氷を持った黒鋼が入ってきた。黒い髪はまだ少し濡れている。

ファイの部屋に黒鋼が入ってくることはそれだけで珍しいことなのに、夜更けに帯剣してとは物騒だ。

(黒様、どうしたっていうの?)

驚くファイを無視して、黒鋼は寝台の横にドカッと座ると刀を抜いた。

それから燭台を自分の手元に引き寄せる。

どうやらここで刀の手入れをするつもりらしい。

(そういえば、戦のない夜はことさら丁寧にやってるもんなぁ。
きっとオレがちゃんと眠るまで部屋に戻らないつもりだろう。)



黒鋼は、本心を明かさない旅の同行者が、浅い眠りの中で悪夢にうなされていることを知っている。

うつぶせのまま恨めしそうに自分を見つめている黒い瞳を一瞥してから蒼氷に視線を戻して言った。

「お前は余計なこと考えてねぇで早く寝ろ。――悪夢なんざ叩っ切ってやるから。」

言っておきながら、少々恥ずかしいセリフだと思ったが、どうせ魔術師にはわかるまい。



ファイは、諦めて目を閉じた。
(黒様は、面倒見がいいというより、時々本当におせっかいだ。)

夢の中に捕らわれていたファイの意識を、黒鋼の存在は一気に現実に連れ戻す。


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黒鋼が蒼氷を鞘に収める頃には、ファイは既に眠っているようだった。

よほど疲れていたのだろう。

忍者が気配を殺して立ち上がり、微かな寝息をたてる横顔を覗き込むと、
白い頬にはまだはっきり涙の跡が残っていた。

月の城では互いに考えていることが手に取るように分かるのに
地上に戻ればその心はまったくつかめない。



―――初めて会った時は雨が降っていた。

つかみどころのない、胡散臭い男だと思った。

存在自体がどこか希薄で気まぐれで、いつか勝手に消えてしまうのではないかと思わせた。

しかし、その心は空虚なのかと思えば時にわずかな感情をのぞかせた。

そして優しさも。

日頃は、他人とつかず離れずの完璧な距離をとって一部の隙も無く振る舞うので礼を言うタイミングもない。


それなのに今日、戻ってきた魔術師は泣きはらした目をして隙だらけだった。
言葉が通じたところで、その訳を自分に話しただろうか。


黒鋼は壊さないようにそっとファイの滑らかな頬に触れた。

「なぁ」

親指で涙の跡を拭ってみる。

「…お前は、一体何と戦ってるんだ?」

想いは無意識のうちに、言葉になって流れた。



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