2.黒ファイ演繹 2-4 星に願いを

戦のあと、王から黒鋼に呼び出しがかかった。

夜叉王の私室に通されると、そこは広く天井の高い豪奢な部屋だった。

一枚の絵のようにも見える大きな窓の高さは床から天井まであった。
幾何学模様の桟に色ガラスを入れた窓の外に見える満天の星空が、ただ静かに室内を照らしている。
黒く磨きあげられた床にはシダのような植物の影が伸びている。


王は既に沐浴を済ませていて、銀の縁取りがされた瑠璃色の絹の部屋着を身につけていた。
その姿は、目前にいる気さくな振舞いの男が貴人であることを思い出させる。

「疲れているところにすまなかったな、お前と少し話がしたかったのだ。」

夜叉王はそう言って黒鋼に杯を渡した。

対する黒鋼は戦から戻ったままの姿で、埃だらけだった。

「…悪ぃが手短に頼む。」

黒鋼は錦張りのふかふかした椅子に座る気になれず、踊り場に胡坐をかいて座った。
背後にある間仕切りには繊細な透かし彫りが入っている。

「黒鋼、今日の風月はいつもと様子が違ったな。何かあったのか?」
夜叉王はファイの事を「風月」と呼んだ。

「あいつはとんでもねえ変人だ。そんな事ぁこっちが聞きたい。」
黒鋼は杯を一気にあおると盛大な溜息をついた。

「まあ、そう言うな。月の力とは時にそう見えることもある。」
夜叉王は窓のほうに歩み寄り、降るような星空に浮かぶ細い月を見上げて少し笑った。

黒鋼は勝手に水差しのようなガラス瓶から液体を杯に満たす。
少しも構えた所のない動作だった。
それから今日の戦で気になったことを彼らしく単刀直入に聞いた。

「――夜叉王、なぜ最後に、諦めた?」

夜叉王は空を見上げたまま答えた。

「確かに今日の私の行動はお前の生き方に反するように見るだろう。
しかし私は既に、死んでいる。」

飾られた大きな窓からは蒼い白い月光が差し込んで夜叉王を照らしていたが、その姿は影を作らない。

黒鋼は無言で王を見据えている。

「気づいていたか?」

「…あぁ、生きている者の気配を感じねぇからな。でも、その心は自分のもんだろう?」

夜叉王は目を閉じてふっと笑った。

「――夜叉王はしばらく前に病で失命して、体は荼毘に付された。それでも私はここにいる。」

そのまま独り言のように言葉をつづけた。

「叶わぬ願いによってつくられた、まるで生きているかのような影見。それが私だ。」

月の光を受けてこちらを振り仰いだ黒い瞳は濡れたように輝いて見えた。



「阿修羅族とは月の城での戦場でしかまみえることはないが、
幼いころより剣を交えて、強く、美しく成長していく姿にいつしか惹かれるようになった。
あの姿は心を捕えて離さない。」

夜叉族の者は皆、黒い瞳をしているが、王の瞳は黒曜石のようでひときわ美しい。

「互いに王となってからも、 戦場で交わす言葉に、表情に、そのすべてに――焦がれた。」


「私は阿修羅王を愛している。」



月の城の空気が震えるほどの想いのやり取りが蘇る。

黒鋼が無言のまま独白に耳を傾けていると夜叉王は寂しげに微笑して言った。

「私を消すことができるのは、叶わぬ願いの主――阿修羅だけだ。」


愛するものを失いたくない阿修羅王の願いが羽根に宿り、目の前にいる夜叉王の影見を作っている。

影見に宿るのは夜叉王の想い。

「そういうことか。」

夜叉王が羽根を持っていることは初めてこの世界に来た時に魔術師から告げられていた。

黒鋼は、結局へらい魔術師はなんでも見通しだと面白くなく思う。

「お前たちが私の元に現れたときから覚悟は決めている。探し物を返せる日はそう遠くはないだろう。
お前には事前に伝えておきたかった。」


夜叉王は踵を返すと王の椅子に戻るのでなく黒鋼の隣に胡坐をかいて座った。

漆黒の長い髪が揺れて月桂樹のような香油の香りがした。

なみなみと酒の注がれた杯を受け取ると、王はまっすぐな瞳で言った。

「悠久の時の流れの中で再び命が繰り返すのならば、私はすべてを捨てて阿修羅を選ぶ。
これが今生での私の学びだ。」

自分の杯を干した黒鋼は鋭く返した。

「俺ぁ、自分の願いは今生で叶える。死んだらそこで仕舞いだ。」

「ほう、辛辣だな。」

王は言葉とは裏腹に実に愉しげな様子で杯を干すと、含みのある顔で言った。

「覚えておこう。」



そして、間仕切りと絹の緞帳の向こうにみえる掛け軸に目を移すとするりと話題を変えた。

「しかし、風月は美しいな。――特に心が。」

「なんだ、急に?」

「お前は聡いのか鈍いのかよくわからん。ちょっと心配でな。」

「何を心配されてるのかわからねぇぞ。」

「そうだな。最近お前が剣術の指導に城に来ると、女官が大変さわがしいと聞いている。」

「???」

「まあ、無理もない。しかし、意思表示はしっかりしておくべきと思うぞ。たまには風月を連れて来い。」

「それって、あんたが会いたいだけじゃねえのか?」

「それもある。…話が終わってしまったではないか!」

夜叉王は語尾を荒げて見せたが表情はとても楽しげだ。

黒鋼はこんなに饒舌な夜叉王を初めて見ると思いながら王に酒をつぐ。

王は礼を言い、続けた。

「肝心のお前にまったく自覚が無いというのは困りものだな。」

そして一度視線をおとしてからまっすぐに黒鋼を見つめて言った。

「それならば、常に心は開いておくことだ。近い未来、雷に打たれる日が来るだろう。
 ――つまり、恋とは情熱だ。」

真剣な表情で言い切った夜叉王だったが、唖然とした黒鋼の顔を見ると噴き出して笑った。


黒鋼は来世など信じていないが、もしそんな世界があるのなら、目の前で笑っている男はきっと阿修羅を探し出すのだろう。

そして再び重い恋の病にかかるに違いない。

そんなことを思った。


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