SS #6 -3 ペンションくろがね 〜交錯編〜


翌日、黒鋼が支度を済ませて降りてくると、ユゥイはカウンターに居た。
さわやかな朝の空気の中で、昨日と変わらず不健康な彼の姿がアオビョウタンのようだと思った黒鋼だが、今度は口に出すようなへまはしない。

ユゥイは黒鋼の気配に気づいても挨拶さえしなかった。

「じいさんはどうした?」

「もう出かけました。」

「・・早ぇな。」

黒鋼はため息をついた。
チャンアンは昨日ご機嫌でしこたまワインをのみ、深夜にはソファーで気を失ったかのように眠ってしまった。そこに黒鋼は毛布を掛けてやり、ラウンジを一人でかたずけてから部屋に戻ったというのに。

ユゥイはカウンターに無言で朝食を並べた。
白いパンとサラダ、スクランブルエッグにソーセージ、昨日のピクルスもある。

黒鋼が食べ終わる頃にユゥイが聞いてきた。

「何時頃出発しますか?」

そこに早く追い出したい様子がありありと伺えたので、黒鋼はデザートのオレンジを食べながらもきっぱり言った。

「あと2日ここに泊まる。」

「は?」

黒鋼は残された時間はすべてここで過ごすと決めた。

今の彼はスポンサー契約不履行を働いて放浪している。この逃走劇は各方面に多大な影響を及ぼした。黒鋼はスポンサーから訴えられれば破産しかねない状況だったし、彼が何よりも大切にしてきた仲間にもその被害が及ぶ所だったが、ミドルアースグループ会長の次元の魔女があらゆる権限を駆使して事態を収拾してしまった。

黒鋼は一ヶ月半の休暇の後にベニスで次元の魔女及び仕事の仲間と打ち合わせをすることになっている。そこで今後の身の振り方を決めるのだ。

とはいっても黒鋼の末路は決まっている。何よりも魔女に借りを作った事が痛い。かりそめの自由の対価はあまりにも大きく、黒鋼の今後3年間の"時間"だった。

ユゥイの入れてくれたコーヒーはほろ苦かった。

「イタリアに行っても一週間後の仕事のほかには目的が無えからな。」

「気ままな人生ですねえ。」

「どうせ客がこねぇんだろ。このホテルは。」

皮肉と皮肉の応酬。それでも何か、彼の役に立ちたいと思ってしまう。
昨日のあの瞬間から、黒鋼にとってのユゥイは命の恩人である魔法の少年だった。

「そうえいば玄関のドア、開きにくかったな。」

親切の押し売りになるのは本意ではないが、なにせ時間が無い。
黒鋼は納屋に入って工具箱を見つけ、立てつけの悪い玄関の扉の蝶番を外してつけ直した。

ユゥイは興味がない風だったが、作業が終わるころを見計らって確認しにきた。

ドアの開閉は快適だった。

「ふぅん。貴方は世界を旅する『便利屋』だったんですね。」

その発言には引っかかったが、青年が満足したようなので何とか堪えた。

「これで、少しは客が来るようなるかもしれねぇな。フン。」



ここから少し風向きが変わる。

「迷惑でなければなんですが・・・あと一つ、腕を見込んで、お願いしてもいいですか?」

ユゥイはちょっと迷ってからそう言ってラウンジのピアノの前に立った。
古いピアノの天蓋の上にはブリキのバケツが置かれている。

「このホテル、雨漏りが酷いんですよ。うっかりこのままピアノを弾いてしまうと泣きたくなります。何とかしてもらえませんか?」

そう言って天井を指差した。

「・・・でめぇ、調子に乗ってやがるな。」

青年が人使いの荒いタイプである事が分かり、素直でない黒鋼は思わず毒づいたが、そんなことを言っている場合ではない。

天井を見やると確かにあちこちにひどい雨染みの跡があったので黒鋼は考えた。

「完全に雨漏りを防ぐのは無理だな。ピアノを守りてぇならもっと簡単な方法でやれ。」

黒鋼はラウンジの梁に添って置かれたピアノをぐいと引きずって動かした。乱暴な移動でブリキのバケツが転がり落ちる。

ガシャ―ーン!!

「何をしてるの!?乱暴はやめてください!!」

ユゥイは珍しく声を荒げた。彼にとってピアノはよほど大切なものらしい。

黒鋼はユゥイを無視して天井に雨染みがない所までピアノを移動させた。

「これで水をかぶることたぁねぇだろう。単純なことだ。・・ん?何だこれ?」

黒鋼は埃にまみれた床から鉄でできたU字型の道具を見つけて拾い上げた。

それを取り乱すユゥイの手に渡すと、彼はとたんに大人しくなった。

「・・・信じられない。こんな所にあったなんて。」

鉄の塊をさわるユゥイの声は震えていた。

「なんだよ、そんなに珍しいもんなのか?」

「これは・・音叉です。楽器のチューニングに使うもので、道具自体は珍しいものじゃ無いけれど、これは特別なものなんです。ここに来てすぐに失くしてしまって・・必死で探したけれど見つからなくて・・もう、失ってしまったものと諦めていました。」

ユゥイが黒鋼の問いに素直に応えるのはこれが初めてだった。

「ここへ逃げてきた自分への、――罰だと思っていたんです。」

青年はしばらくの間、両手で大切そうに音叉を握りしめていた。

その後、彼は驚くべきことに少しぎこちない笑顔を見せて、消え入りそうに小さな声で言った。

「・・・ありがとう。」

その瞳は長い前髪で隠れて見えなかったけれど、黒鋼は自分が何を探し求めていたかを理解した。

魔法の少年の面影を探し続けた理由は、さみしそうな困り顔ばかりしていた彼の、笑顔が見たかったのだと。

(・・柄でもねぇか。)



その後、ユゥイはほこりまみれのラウンジを掃除して、黒鋼はおんぼろホテルの屋根を修繕した。

黒鋼がヒビだらけの屋根や壁を何とかセメントで補強しつくしたときには、既に夕闇が迫る時刻になっていた。

ホテルの屋根から辺りを見渡せば、薄い紫色の空には一番星が浮かび、残照を受けた白い尾根が輝いてみえた。

この場所に暮らしながらも、この風景を見ることの無いユゥイの事を考えると、何となく感傷的な気分にさせられる。

アルプスの涼を運ぶ風が、汗を拭った黒鋼の頬をひんやり撫でた。



部屋に戻るとユゥイは夕食を準備していた。

「屋根の補修は完了ですか?」

「ああ、何とかな。このホテルは客を泊めるレベルじゃねぇぞ。」

「それは御苦労さま。でも、宿代の踏み倒しは無しですよ。」

「・・・。」


黒鋼が風呂から戻ると二人で夕食を取った。

メニューは若鶏とアスパラのクリームパスタだった。

黒鋼は食べることに真剣なので初めのうちは互いに無言だったが、少しそわそわしていたユゥイから先に口を開いた。

「食事は、口に・・合いますか?」

「ああ。悪くねえ。」

ユゥイはとたんに饒舌になり、今日の料理について話し出した。
ソースは生クリームに牛乳と少し癖のあるブルーチーズを混ぜたので、好みに合うか心配だったとか、鶏肉はフランベしたけれど、冷凍なので気になるようなら残してくれとか、他にもいろいろだ。

やっとユゥイの料理談義が終わったので黒鋼は言った。

「そんなに心配しなくてもお前の料理は十分旨いぞ。」

「・・・。」

ユゥイは黙ってうつむいてしまった。




食後にラウンジでしばらくくつろいだ。

黒鋼が座るカウチソファーは、深紅色の天鵞絨張りで、ローライトテーブルと揃いのアンティークと言えば聞こえの良い、つまりは年代物だった。

ユゥイはテーブルを挟んだ向かいのスツールに座った。

二人はワインを飲んでいたがそのうちユゥイはドライフルーツと一緒にチャンアン秘蔵の酒を持ってきた。
ラベルにはポール・ジローとあるがビンテージの表記は無い。


ユゥイは「秘密ですよ。」といって琥珀色の液体が入ったグラスを寄こした。

葡萄の香りと柑橘系の華やかな香り。黒鋼は一口含んでこの香りを思い出した。
以前、どこかの王様が使うような純金の杯で飲んだブランデーに間違いなかった。


「寒くは無いですか?」

酒と暖炉の火で十分暖かい。

「大丈夫だ。人の心配ばっかりしてんじゃねぇよ。」

「・・慣れて居ないんです。チャンアンさん以外の人と二人でいる事なんて、長いことなかったから。」

ユゥイの目がが全く見えないことを考えると、確かに慣れない相手(しかも無口)と居ながら手持無沙汰なのは不安かもしれないと思った。

「そうか・・。」

昨日チャンアンはユゥイの事も話した。彼がここに来る前はイタリアで仕事をしていた事や、人と関わることを好まない性格は、過去を考えれば仕方がないと言う事。
そして、料理やピアノの腕は天才的で、特にモーツァルトは素晴らしい!と延々と話した。

「今、ピアノを弾けるか?」

「・・聞きたいというのなら。」

ユゥイは戸惑いながらもピアノの前に座って蓋を開けると、大切そうに鍵盤を撫でからいくつかの音を鳴らした。

そして、叫んだ。

「あ ぁ、ひ ど い!貴方のおかげでめちゃくちゃだ!」

一転して癇癪を起こした青年はカウンターからいろいろ道具を持ち出してピアノのふたを外すと黙々と調律を始めた。

彼は宝物の音叉をポケットから取り出すと膝頭で軽くたたいて歯に咥えた。そのまましばらく音をはじいては弦の調整を繰り返す。

ユゥイの大切なピアノはウォルナット材の艶消し仕上げで「ベヒシュタイン」と入っている。

黒鋼はそんな彼の横顔を見ていた。さっきまで気を使っておびえていたかと思えば、今はこの部屋に自分以外の誰かいることなど忘れているように見える。
きっと料理をするときもこんな風なのだろうと想像すると微笑ましい。
黒鋼には、老人が変わり者の青年を心から愛し、大切に思う気持ちが分かるような気がした。

黒鋼はランプの灯を消して、準備ができるのを待つことにした。
部屋には青白い月光が差しこみ、暖炉の黄色い炎がつくる影が揺れた。

チャンアン秘蔵の酒はもう半分以下になっていたが、昨晩の始末や屋根の修理の事を考えると自分には十分飲む権利があると思い、さらにグラスに注ぎ足した。

ようやく準備を整えたユゥイはハープを弾くようにころころといくつもの音を奏でながらいった。

「お待たせしました。曲のリクエストはありますか?」

繊細で澄んだ音の響きに満足そうな様子がうかがえる。彼の顔は鼻と口元しか見えないのだが、その感情はとてもわかりやすい。

「なんでもいい。」

「やっぱり。じゃあ、こんな夜ですからジャズにしましょう。男女の恋と夜空ならどちらが今の気分に近いですか?」

黒鋼は無意識に背後の窓から星空を見上げた。

「夜空だな。」

「ロマンチストなんですね。」

ユゥイが奏でる音の粒は次第次第に繋がって響き合い、やがてひとつの曲になった。

それは『ムーン リバー』。

ゆったり深く流れるアルペジオは、橋の上から見た穏やかな河口の流れ。
黒鋼はしばらく前に見た風景を思い出した。
セーヌ川のほとり、雨上がりの石畳の匂い。
夕暮に染まる雲の上には虹が架かっていた。

少し酔っているのか、(演奏しているユゥイに心を触られるような)心地よい振動にまかせて目を閉じる。

すると雲の上の虹のふもとに少年の姿が見えた。
彼は長い杖を横に持つと薄紫色の光の螺旋に包まれてすっとどこかへ旅立ってしまう。

光が消えると辺りは暗くなり、深い藍色の水面には、きらきらした星屑が揺れてたゆたう。

それは夜間飛行のセスナから見下ろした夜の街。

ゆらゆら瞬く街の灯は、やがて月を浮かべる海へと注ぐ。

果てなく広がる水平線は、次第にだんだん丸くなり、いつしか碧い星になる。

ゆったり流れる旋律の中で響く和音は星の瞬き水面のゆらぎ。

宇宙に浮かんだ星々が紡ぐ流れは月の河。

それは、アマデウスの指が奏でる音の波だ。



青白い光の中の青年はラウンジに最後の音を響かせた。













♪ペンションくろがね つづく♪

次へ

戻る