SS #6 -4 ペンションくろがね 〜熱情領域編〜


音の波の余韻を残す月光のラウンジで、ピアニストの白い手がテーブルの上をさまよった。

すっとグラスが手渡されたので、彼は少し困った顔をして受け取った。

「・・ありがとう。」




「ここへ来る前のお前の仕事は、ピアノ弾きか?」

ユゥイは寂しげに笑って答えた。

「ピアノはただの趣味です。」

「じいさんとは同僚だったと言ってたな。」

ユゥイはちょっと首をかしげた。

「どうしたんですか?無口な人が、質問ばかり。」

なぜか素直な黒鋼が答えた。

「お前の事をもっと知りてぇ・・ような気がする。」

向い合せに座った二人は、互いに照れて視線をそらした。

しばらくすると、なぜか素直なユゥイが話し出した。

「そうですね、チャンアンさんを同僚、といっていいのか・・一緒に世界を回って、外交のような仕事をした時期もありました。チャンさんとオレはコインの表と裏のような関係です。」

過去を話すユゥイの言葉はいまいち歯切れが良くないが、そのまま続いた。

「オレは何も選べず、スケジュール通りに長い距離を旅する生活をしていました。
新しい土地に着くと、空気の匂いも、肌に感じる日差しも、聞こえてくる言葉もみんな違って、いろんな刺激が一気に流れ込んでくるから、何も考えられなくなってしまうんです。
でも、飛行機の中だけはいつも静かだから、”次はどんな世界だろう"って考えていました。そうしていると何も見えない事が、少し寂しくなるんですけどね。」

黒鋼は、ユゥイの暗闇の世界と自分の記憶を重ねながら、次の言葉を待った。

「だから、セスナで夜間飛行している貴方の思い出はとりわけ素敵でした。3人で、星屑の海を渡って次元旅行をしているみたいに見えました。」

ユゥイは、そう言ってから少し「しまった」という顔をした。
黒鋼は何も気にする様子は無い。

「あれは上海の夜空だ。」

それは今も心に焼き付いている眺めだった。
セスナに同乗していた羅刹は、地上にあふれる輝きを "黒いビロートの上に宝石をまき散らしたようだぜ" と表現した。
それを聞いて悪寒を感じた黒鋼がもう一人の男を見ると、頬杖をついて何やら考え事している星史郎の眼鏡には、揺れて瞬く街の灯が映っていた。

思い返せばその頃の旅はいつでも3人一緒だった。

「思い出自体は良いもんじゃなねぇけどな。」

このセスナは数時間後にインドの秘境に墜落する。
しかしそれさえも懐かしく思えて、黒鋼はグラスを傾けると少しだけ、笑った。


すると、ユゥイが今までと違うはっきりした口調で言った。

「オレが、話してもいない思い出を知っていることに抵抗は無いんですか?」

黒鋼は変わらないペースで飲み続けている。

「ああ。お前が魔法使いでも驚かねぇよ。」

「変わった人だ。」

「お前にそう言われるのは抵抗がある。」

「でも、オレは魔法なんか、使えません・・」

ユゥイは少し辛そうに、自分の特別な能力について言葉少なく話しだした。

ユゥイには人や物の感情や記憶が見えるという。
彼は、感情や記憶は波動として伝わるものだから、チャンネルをざっくり合わせると流れ込んで来ると話し、対象とチャンネルがぴったり合うことを共鳴と表現した。

ユゥイの話が終わってしまったので、黒鋼は別の話を振ってみた。

「お前の生まれは、イタリアか?」

ユゥイは流暢なフランス語を話すが、チャンアンとは時々イタリア語で話していたし、先ほど癇癪を起してピアノのチューニングをしながらぶつぶつつぶやいた言葉は黒鋼には解らない言葉だった。

「いいえ。出身は――ずっと北の国です。」

そう言ったユゥイは、苦しそうにグラスを握りしめた。
そこには強い罪の意識が感じられた。

「・・・もう、戻れないけど、せめて一所で静かに暮らしたいと願っていたら、チャンアンさんがこうして叶えてくれたんです。チャンアンさんはオレの恩人なんですよ。」

ユゥイはそれきり話さなくなり、カウンターから持ってきた水差しで黒鋼のチェイサーを注ぎ足した。

ぱち、とはじけた暖炉の炎は小さくなっていた。

「少し部屋が冷えてきましたね。寒くはありませんか?それとももう、休みますか?」

ユゥイが再び立ち去ろうとしたので黒鋼はその腕を掴んだ。
人の事を気遣ってばかり、自分を責めてばかりの青年を今日はこのまま放したくなかった。

「まだ、座ってろ。」

二人のグラスにまだ少しだけ残っているブランデーは引き留める理由になる。

そのまま腕を強くひかれた勢いでユゥイは黒鋼の隣に座った、



「オレに触ると感情を読まれますよ。気味が悪くないですか?」

「もう、いまさらだろう。」

ユゥイは、その言葉に安心した様子で、緊張を解いた。

「なぜオレに関わろうとするんですか?人には無頓着なくせに。」

ユゥイが見た黒鋼の記憶は情景が殆どで、滅多に人物が出てこなかった。

冒険家は少し考えてから、話しだした。

「自分のミスが原因だが、昔、雪山で遭難した事がある。それをお前に助けられた。・・この世の話じゃねぇらしいがな。」

「そんな、夢みたいな話・・。」

ユゥイの反応を見てから黒鋼は続けた。

「お前は魔法使いだったが、傷を治す魔法は使えねぇとしょんぼりしてたぞ。」

黒鋼は現実主義者だった。
ではなぜ、魔法の少年の存在を信じるのか。
それは無事ベースキャンプに生還を果たした黒鋼が、ぼろぼろになったグローブを外したとき、左手の傷には少年がきっちり巻いてくれた止血の包帯があったからだ。

「夢じゃねぇんだよ。」

「オレは貴方の事を覚えていませんよ。」

「・・だろうな。お前とあの子供がまったく同じなわけじゃねぇ。」

ユゥイには自分の言葉が黒鋼を寂しい気持ちにさせたことが分かった。

「じゃあ何が同じなんですか?」

「目を見るまで気づかなかったから偉そうなこたぁ言えねぇが、同じなのは、『気配』だ。」





「それなら・・気配をたどって、以前会った貴方の姿を思い出してみましょう。」

「子供の姿のお前はたぶん、俺の目しか見てねぇぞ。」

猛吹雪の中にいた黒鋼は、ゴーグルを外した目元以外は黒ずくめの登山服に覆われていた。

「大丈夫ですよ。じゃあ・・貴方の瞳の色を。」

ユゥイは目を閉じた。


黒鋼に初めて会った時の記憶をなぞって瞳の色をさがしてみる。
昨日、夕暮れの匂いと一緒にラウンジに流れ込んできた気配。

「最初に感じた印象はスペインのマタドールみたいなイメージだったんです。ちょっと面白いでしょう?」

「根無し草よりはましだ。」

ユゥイは少し笑った。

「きっと、命をかけた勝負をしてきた、情熱的な人だろうって思ったんです。でも、ひどく渇いた感じがしたから、少し心配にもなりました。」

しばらく黙りこんだユゥイはもっと深くに潜った。

「別の層の記憶から今の気配を探してみます。」






「あなたとは・・何度も会っているかもしれない・・。」

「俺が会ったのは一遍だけだ。」

ユゥイは黒鋼の頬に触れた。

黒鋼は彼に伝わるように氷の国を思い描いた。
氷柱が立った洞窟。人形みたいな少女。
魔法の少年のあどけない声と柔らかい手。

「・・この場所は貴方のイメージとよく似てる。かわいい女の子の隣で、なんだか顔色がすぐれなくて情けない顔をしてる人が横になっています。」

「・・余計なところはいい。」

「オレは心配で仕方がなくて、その目を覗き込んだんだ。そして、なぜか不思議だと思った。」

黒鋼は息をのんで、ユゥイはゆっくり目を開けた。

「ああ、・・あの時オレが見た瞳は、燃えるような ・・紅い色をしていました。」

黒鋼は答える代わりにユゥイを抱き締めた。






「痛いですよ。」

流れ込んできた想いは「感謝」だった。
黒鋼が自分と同じ存在に伝えたかった気持ちが嬉しくて、ユゥイは広い胸に体を預けた。

すると耳元で、良く響く低い声がくぐもって聞こえた。

「やっぱり、お前だ。」

その響きがぞくぞくするほど優しかったので、ユゥイは少し迷ってから、言った。

「印象の話は、実はもう一つあるんです・・」

(?)

「貴方の声って・・凄く セクシーだ。」







ここから穏やかな流れは一変する。

黒鋼はたった今まで、満たされた気持で十分幸せだった。

しかし、この一言は、黒鋼が気付かない振りをしていたある感情を刺激した。

ついに魔法の少年と同じ瞳に逢った時、ようやく礼ができると思っただけでは無かった。
自分の心を一瞬にして奪ってしまった青年の、心が、すべてが欲しいと思ってしまったのだ。
そして、その不本意な感情には、『ありえない』と蓋をして、片付けたつもりだった。

「・・あ、誤解、しないでくださ」

「無理だろう。」

あらゆる局面を本能ともいえる決断力・行動力で乗り切ってきた冒険家は、一瞬の躊躇逡巡の後、勢いよく理性を手放した。



黒鋼がユゥイの腕を掴んで押し倒したので、アンティーク(年代物)のカウチソファーが悲鳴を上げる。

「あ あ あ 、なんて事を・・!やめてください。」

首筋に押し当てられた唇、熱く湿った舌の感触。

ユゥイは、自分に覆いかぶさって器用にシャツのボタンを外していく相手の心象風景に慄く。

しかし、必死に逃れようとしても強い力で抑え込まれて身動きが取れない。

一方黒鋼は、あまりにも激しく抗われたので少しだけ力をゆるめた。

「・・厭か?」

「そう・・・ではなくて・・・怖いんです。」

「何が?」

「貴方・・が。」

金の髪の隙間からのぞく蒼い瞳は震えている。

「じゃあ、目を、閉じてろ。」

「オレには閉じたって同じです。」

「・・面倒癖ぇ奴だな。」

「そうですねオレは面倒くさい人間です。貴方はシンプルで美しいけれど。」

「馬鹿な事言ってんじゃねぇよ。」

黒鋼はため息交じりにそう言うと、組み敷いたままでユゥイの汗ばんだ額にかかる金の髪を指で梳いた。

そして、月夜にたなびく雲の影を映す、蒼い湖水の瞳や、荒い呼吸に上下するなだらかな白い胸を見つめて思った。

(美しいなんざ、お前の為の言葉だろうが。)



「オレは 美しくなんかありません!」

「ってめ・・」

(人の心を読みやがったな ///)

覚悟を決めたユゥイは一瞬ひるんだ相手に構うことなく、苦しげな表情のまま続けた。

「オレは、沢山の人の心を壊してしまった。だから、悪魔と呼ばれて暗闇の中で生きています。これ以上深く触れたら、この闇を貴方に・・うつしてしまう!」

それは、ようやく言葉になって現れたユゥイの罪の意識だった。



「じゃあ やってみろ。」



心の闇を打ち明けた唇は、強引にふさがれた。

熱い舌が、小さな悲鳴を上げた唇をあやすみたいになぞってから口内へと侵入して、大胆になかを弄った。

ユゥイの心は深い口付けに、絡め取られて流されてしまう。

裸の胸を撫でた手は、迷いなく躰のラインを辿り下肢に伸びた。

「俺にはお前の過去は関係ねえが、何もわかっちゃいねぇようだから言っておく。」

耳元で囁く低い声の響きに、体の芯が痺れて眩暈がする。

「誰に悪魔と呼ばれようが、じいさんは今のお前を何と呼ぶ?」

ユゥイは吐息交じりの掠れた声で答えた。

「ちゃんあんさんは・・オレを・・『アマデウス』と呼び ます。」

アマデウス その名の意味は "神を愛し愛される者"

「傍から見てる奴には好きに言わせておけばいいだろうが。」

冒険家は氷壁に閉ざされた心に踏み込んだ。

「俺は ずっと―― お前を探してた。」

青白い月光が差し込むラウンジで、今にも消えそうな暖炉の炎が揺れて はぜた。



涙をたたえて揺れる瞳は何処までも深く静かなブルー。

「もう、どうしたらいいか分からなくなってきました・・。」

「そのままにしていればいい」

澄んだ水面を覗き込んだ冒険家は、透明な水に、永遠に続くかのような渇きを癒やされたいと願う。

「貴方は・・強引過ぎます・・。」

ユゥイは力なく身をよじった。

「それならもう やめておくか 」

もう引き返すつもりなどないけれど、熱く、溶けそうな場所から指先を離す。

「・・いじわるだ。」

「 じゃあ お前はどうしたい 」

ただ一言を聞かせて欲しい。

「言ってみろ」


湖水の瞳の青年は、押し当てられた熱に浮かされた声で囁いた。



「 Je te veux ・・ 」



―― 貴方が 欲しい と。




月のしじまで抱き締め合えば、重なる肌の熱に意識は溺れて もはやどちらのものとも分からない。



何処までも深く潜って 何もかも攫ってしまいたい。




♪ペンションくろがね つづく♪

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