SS #6-2 ペンションくろがね 〜邂逅編〜
駅前のモン・セルバンに泊まった黒鋼は、簡単な朝食を済ませて外に出た。
夏の日差しを通す澄み切った空気を吸い込んで辺りを見渡せば、メインストリートには古い木造のロッジが立ち並び、深い赤色と木々の緑のコントラストが眩しい。
ホテルのベランダは色とりどりの花で飾られて、石畳の広場には小さな電気自動車や馬車が行き来している。
この時期には世界中からハイカーが集まるため、朝の散歩を楽しんでいる人が大勢いる。
ハイカー達はアルピニストの姿を見つけると笑顔で声をかけてきた。
「おはよう。一人旅かい?」
何処の国へ行こうとも黒鋼は目立つ大男だった。
「ああ。休暇中だ。」
黒鋼は気のない返事を返すと頭にのせたサングラスをぐいと下ろした。
メインストリートをぶらぶら歩いて行くと、観光案内所、銀行、スーパー、診療所となんでも揃っている。
黒鋼の前を山羊の群が通り過ぎて行った。先頭の少年が餌をまきながら誘導し、群れの最後を別の少年が後ろから追い立てる。
村の風景は、車窓を流れる風景のように冒険家の心をすり抜けていった。
黒鋼は高台に見える教会まで歩いた。
村全体が見渡せそうな鐘塔とステンドグラスのはめ込み窓がある高屋根の礼拝堂。
石造りの教会は村の規模に対してかなり立派だった。
教会の前に噴水のある広場があったので、緑色のベンチに座って足を投げ出した。
此処からは昨日心を奪われたマッターホルンが良く見える。
真夏でも雪が残る丸い山頂から麓にかけて、遮るものは何もない。
その姿は、青空を背景に白いブーケをかぶった女性が一人佇んでいるように見える。
静かに世界を見守る女神は神々しく、そして孤独にも見えた。
その時後ろから声がかかった。
「おはよう。」
振り返るとそこには苦み走った中年男性が立っていた。
漆黒の癖のある髪、口元にはひげを生やし、その長身を黒い法衣で包んでいる。
「もうすぐ朝の礼拝が始まるが、よければ寄っていかないか?」
「・・遠慮しておく。祈りの習慣は無ぇ。」
「そうか。あなたが迷い、山の女神に救いを求めているように見えたものでね。此処に来るものはみな女神に呼ばれて来るのだよ。」
すると、黒鋼は自分でも思いもよらない言葉を口にした。
自分が救いを求めているとしたら――。
「・・探し物をしている。もう何年も経つが、見つからねぇ。」
黒い法衣の男の表情が柔らかくなった。
「自分の願いに気付いているのなら、行動することでいずれ答えは出るだろう。」
男は黒鋼に手を差し伸べた。
「私はこの教会の神父をしているグロサムだ。あなたの探し物が見つかるようここから祈っているよ。」
黒鋼もそれに応えて、名を名乗った。
神父の手は暖かかった。
山の空気の匂いは標高2000メートルを超えたあたりでまず変わる。
あたりに夕闇が迫る頃、予定通り標高2500メートル付近の山小屋についた。
そこには二つのホテルがあった。
一つは山道の脇にある『スピリット』、もう一つは少し離れて崖っぷちにひっそり立つ『ホテルアマデウス』だ。
スピリットはいかにもスイス風ロッジで収容人数も多そうだった。軒先には世界中の国旗が飾られている。
対するアマデウスは黄色い壁に煉瓦の張り出し窓がついた張りぼてのような建物で、アルプスの自然に似つかわしくない。
大勢のハイカーでにぎわうスピリットの入り口を見ると、足は自然にアマデウスに向いた。
アマデウスの玄関に立ち観音開きのドアを開けようとするが、ちっとも開かない。
黒鋼は扉を叩いてみた。
ドン ドン ドン ドン
誰も出てこないので再び叩いた。
ガン ガン ガン ドガン!
最後は力任せに拳を叩きつけてこじ開けた。
すると中は板張りの床の質素なラウンジで、カウンターには長いひげの老人が一人、新聞を読みながら座っていた。
部屋に不釣り合いな程大きいカウチソファとローライトテーブルはアンティーク調で、部屋の隅には古いアップライトピアノが置いてある。
老人は、夕暮れの匂いと一緒に部屋に入ってきた黒い人影に気付くとキョトンとした顔をした。
「はて、お客さんかね?」
「ああ。一晩宿を取りてぇんだが・・・。」
「結界を越えてくるとはこりゃ驚いたのう。ほっほっほっ。」
魔法使いのような姿の老人は新聞を畳むと、手を伸ばした。
「では黒い人、念のためパスポートを見せとくれ。」
黒鋼は分厚いパスポートをぐいと差しだして不機嫌そうに言った。
「黒鋼だ。」
それを受け取った老人は羽根ペンを取り出して台帳らしきものに旅券番号をすらすらと入力しながら言った。
「わしはチャンアンじゃ。それにしてもずいぶんいろいろな国を渡り歩いておるのう。ここへは仕事できたのかね?」
黒鋼はパスポート見りゃわかるだろうと、めんどうくさそうに答えた。
「観光だ。」
老人はそうかそうか、と笑うと、奥にいるらしき誰かを呼んだ。
「アマデウス、バンビーノ、お客様だよ。挨拶なさい。」
すると厨房からひょろっと背の高い青年が出てきた。
洗いざらしのスタンドカラーの白シャツを着て、黒いパンツの上に長いギャルソンエプロンを巻いている。
淡い金色の髪は襟足で無造作に束ねられているが、長い前髪に隠れて表情は全く分からない。
黒鋼は目の前に現れた奇妙な青年に不思議な既視感を覚えた。
「今日は誰も来ないと思っていたから準備をしていませんでした。」
青年の声にはどこか遠くから聞こえてくるような響きがある。
「その予定だったんじゃがのう、アマデーオ。」
そう言いながら老人は青年にパスポートを渡した。
青年は受け取ったパスポートの上に手をかざす。
「ああ、問題ありません。この人は・・雑食だ。」
青年がおかしなことを呟いてからパスポートを返したので、黒鋼は受け取りざまに言った。
「日陰のもやしみてえな奴だな。」
青年の口元に不快感が現れた。
「そういう貴方は『根無し草』ですね。」
「!」
痛烈な皮肉に固まる黒鋼を残して、青年は厨房に消えた。
黒鋼の他に客はいなかったのでその日の夕食は3人で取った。
アルプスの夜は冷えるが、ラウンジで暖炉が焚かれているので食堂も暖かい。
この日のメニューは、鍋料理のラクレットだった。じゃがいもやハムに溶かしたチーズを乗せて食べるシンプルな家庭料理だ。
食事中、チャンアンはワインを飲みながら陽気に話した。アマデウスだのアマデーオだのと呼ばれる青年は黙々と給仕するばかりで何もしゃべらない。
そして二人とも少食だったので実質3人分を黒鋼が平らげた。
料理の味が悪くなかったので黒鋼は自分に負けず劣らず対人マナーに問題を抱える向かいの青年を赦す気になった。
「このピクルス 旨いな。」
黒鋼がそう言うとうつむき加減の青年が顔が少し赤くなった。
「隠し味は、はちみつじゃ。」
「あんたが作ったんじゃねえだろうが。」
「ほっほっほっ。彼は料理の腕もアルプスの星3つじゃ。」
黒鋼が青年に話しかけようと思っても、ほとんどチャンアンが答えてしまった。
そして老人は黒鋼にいろいろと聞いてきた。今後の予定や、故郷の事、仕事の事。
黒鋼は、自分の仕事を世界中を回る宣伝活動みたいなものだと話した。そして休暇が終わる一週間後には仲間とイタリアで会う予定であることも話した。
故郷については国籍が日本という事しか話さなかった。彼は天涯孤独なので、施設で過ごした少年時代は進んで話したい過去でもない。
それを聞いたチャンアンは日本にも行ったことがあると話した。チャンアンは今まで黒鋼と同じように世界中を旅する仕事をしていて、数年前に引退して元同僚の青年と共にこのホテルを始めたという。
麓の村がチャンアンの故郷だが、何とこの年までほぼ家族をほったらかしにしてきたらしい。妻を早くに亡くしてしまったが、息子が村の名士であるため、戻ってきても肩身の狭い思いをせずに好きなことが出来るという。
「わしは本当に恵まれておる。わしの家族の慈悲はマリアナ海溝より深い。」
「とんでもねぇじいさんだな。」
「そんな事も無いぞ。明日は息子の仕事の手伝いで麓の村まで降りるんじゃ。だからあんたとは今晩限りでお別れじゃ。残念だのう。」
そう言いながら老人は黒鋼と自分のグラスにワインを注いだ。
「ところでお前は聞いてるだけか?」
黒鋼は青年に話を振った。
「・・・。」
青年は何も答えない。チャンアンはにこにこしているが何も言わなかった。
「いろいろ呼ばれてるが、どれが本当の名前なのかもわからねぇ。」
黒鋼は身を乗り出して青年の顔にかかっている金の簾をがさっとかき分けた。
すると、そこに現れたのは驚くほど端正な顔だった。
見開かれた瞳は澄んだ湖水のようでどこまでも深く蒼い。
黒鋼は青年の瞳から目を離すことができなかった。
青年は感情を押しこめた無表情になると、額に触れたままの黒鋼の手を強く払った。
うつろな蒼い眼は焦点が合っていない。
「・・目が、見えねぇのか?」
「そうです。だから隠れていたって同じこと。」
青年は流れた前髪を元に戻して立ち上がった。
「オレの名前は『ユゥイ』です。他に何もないなら失礼します。」
ユゥイは自分の食器だけ持つと厨房へ消えてしまった。
食堂には空っぽの食器と老人と大男が残された。
「許してやっておくれ、黒い人よ。天才はいろいろ難しい。今晩はじじいに付き合ってくれんかのう?」
老人はそう言ってにこやかに2本目のワインを開けた。
その時の黒鋼には青年の事以外は一切考えられず、何も答えられなかった。
彼の瞳が、探し続けた魔法の少年と同じものだったから。
♪ペンションくろがね つづく♪