#16-4 エイプリル・ラブ・フール

◆教員宿舎

春が近いとはいえ夜風はまだ冷たく、コートの襟を立てたファイは家路を急いだ。
時間は夜の十時を少し回っている。
イタリアへと発つ準備はいよいよ大詰めで、この日はエージェントから航空券を受け取り、所用を済ませてきた。

携帯にメールの着信。
ユゥイからのメッセージに冷えた心がほころぶ。
このところ目に見えて忙しくなってしまったユゥイだが、こうしてまめに気遣い、落ち込みがちなファイを励ましてくれた。
少し前にファイは、ユゥイとある約束をしていて、それを忠実に守っている。
ときどき心が折れそうになるけれど、結局は自分で決めたことだから、あまり心配はかけたくない。

兄弟からのメールはイタリア語で届く事が多いので、合わせて同じ言葉で応える。
それでも顔文字はいつも通り、万国共通だ。※(注
ファイはユゥイへのメールに笑顔をたくさん貼り付けて送信した。


実際の所、普段通りの仕事と並行して進めなければならない準備の数々はファイにとってかなりの負担になっていた。
つい、好きなこと興味のあることを優先してしまう癖がある為、元々こういった部類の仕事が苦手なのである。
それは、学園での生活においても大いに頼っている部分だった。
黒鋼に。

"お前、明日朝礼当番だろ。遅刻すんじゃねえぞ"
"文化部予算の周知、さっさとやれ。周りに迷惑かけんな"

(くろたん・・・)
口調こそ厳しいが黒鋼の本質は面倒見が良く優しいのだ。
顔がみたい。
せめて声が聞きたい。
(でも・・ダメなんだよぅ)
ファイは、すがるように携帯電話の待ち受け画面を覗き込んだ。
生徒に囲まれている部活指導中の黒鋼は、比較的穏やかな表情をしている(本人比)。
しかし、怒られないように隠し撮りをした写真の中の彼は、いくら見つめてもこちらを振り向いてはくれない。

ファイは、ふと、周囲を流れる凛とした花の香りに気づいて顔をあげた。
(・・何の花?)
街灯に照らされた辺りを見回しても花の姿は見当たらず、ただ、香りだけが夜風にまぎれて鼻孔をくすぐる。
初めて知ったその花の香りの余韻は甘く、不思議と懐かしさを漂わせ、切ない胸の内にしみ込んだ。

(会いたい 会いたい 会いたい ・・・ 黒様)

彼の怒りっぽいところもちょっと乱暴なところも控えめな優しさも全部好きだった。
このままでは何も変わらないと兄弟から言われても、自分が黒鋼からどう思われているかなど考えられないほど夢中なのだから仕方がない。

黒鋼を想う気持ちは、そっと心に忍びこんできた花の香りのようになぜか懐かしい。
そして、甘く切なく香って、ファイの胸を締め付けるのだ。





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よろよろと教員宿舎の階段を登る足取りは重かった。
(足りない・・萌えが)
もう、とっくに限界を超えている。

ようやく部屋のドアの前に辿り着き、鍵を探してバックのポケットをもそもそ弄っていたファイは、誰かが階段を登ってくる足音を聞いた。
それが誰なのか、気配ですぐに判ってしまい、反射的に顔をそむける。

「今帰りか?」
(ドキ――!!)
この数日間焦がれ続けた声が、無機質な廊下に響いた。
ファイの心臓が跳ね上がる。
「う、うん、ちょっと寄るとこあって。えっと・・う~んと・・じゃあね」
あわてて取り出した鍵をドアノブに差してひねった時、俯いた視界に相手の足元が入ってきた。
「待て」
黒鋼の声が曇った。
「お前、顔色悪いぞ。大丈夫か?」
「・・・大丈夫だよ。ちょっと、疲れてるだけだから」
これ以上近くに来ないでと、心が悲鳴を上げる。
「ちゃんと食ってんのか?飯。まだなら・・・外に食いにいくか?」
「う・・」
ちら。
後ろ髪ひかれる思いでさまよう視線。
その先が、黒鋼の手にあるコンビニ袋へと移った事をすかさず気取られる。
「別にこれなら朝、食えばいい」
(うぅ・・)
ファイは歯を食いしばった。
「やめとくよ」
「おい、待てって!」
ぎゅうと目を閉じたままドアを開けて、黒鋼を振り払った。
「オレも今日は家ですませるよ。おやすみ」



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最後まで黒鋼と目を合わさないまま後ろ手にドアを閉めたファイは、ずるずるとその場にへたり込んだ。
(ごめんね・・黒様)

こんな時間にもかかわらず、黒鋼は仕事帰りの様子だった。
仕事はできる人の所に集まるもので、黒鋼は、恐れられつつも同僚達から頼られているのだ。
自分にも他人にも厳しい彼は、どんなに多忙でも手を抜いたりはしない。

ときどき、そんな黒鋼のことが心配になる。
もう少しだけ、笑ってくれたらいいのに、と思う。
そう思ってファイがすることはたいてい彼を怒らせてしまうけど、それでも周りが笑ってくれるからそれで良かった。
ずっと、そんな時間が続けばいいと思っていた。
でももう、甘えてばかりではいられないのだ。

「これで、いいんだよね・・」

言葉につづいて零れそうになる涙を懸命にこらえる。

黒鋼はこれから買ってきた食事を一人でとるのだろう。
身勝手なことと分かっていても、そう思うだけで、胸が苦しいのだ。



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(一体なんだっていうんだあいつは・・!)
部屋に上がった黒鋼は、荷物をおろすと同時に日頃の疲れがどっと両肩に降りて来るのを感じた。
ファイの行動が予想の範囲を超えるのはいつもの事にしても、今回はいつも以上に不可解で、苛立ちはもう通り越してしまった。

(あんな顔見せられたら誰でも心配するだろうが)
しかし今、何を聞いたところであの調子で拒絶されるのは見えている。
先ほどのやり取りで、ファイが意図的に自分を避けている事は一層明らかになった。
そんなことをされる心当たりなど、無い。
――はずである。

買ってきた食事を温める気にもならず、冷蔵庫から取り出した発泡酒と一緒に流し込む。
一人で取る食事も、色のない部屋も、ひどく味気なく思えた。





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※(注 正確には、顔文字は日本独自のデジ文字文化だそうです。(^v^)

ありがとうございました。
つづきます。

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