紅い石
ルビー
外では風の音がする。
苦しくて 苦しくて ―― みじめだ。
ふらふらと暗い自室に戻った詩人は、残りわずかなアブサンの壜を取ると、中身を一気に飲み干してから寝床に突っ伏した。
苦い酒の味は、くしゃくしゃの心によく沁みた。
自分はなんて役立たずなのだろう。
でも、もうすぐ。
もうすぐきっと。
旅の途中の詩人には、出発前の仕度などほとんど必要が無かった。
それでもここでは最後に、やらなくてはならない事が残っている。
旅の目的である、紅い石の所在を確かめなければならない。
その情報さえ手に入れたら、ようやく旅の終わりが見える。
セレスへ帰れる。
王の元へ。
それでも、なぜこんなに
苦しいのだろうか。
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旅支度を整えた詩人が、金の竪琴を抱えてそろそろと部屋に入ってきた。
肩から背負った大きな荷物の正体に気づかれないようにと用心深く歩いているが、盗賊王はその袋の中身が何なのかを知っている。
「遅え」
「・・すみません」
詩人が床に降ろした袋は、ガチャンと音を立てた。
部屋の空気は冷たく乾燥していた。
そこにいるのは盗賊王一人で、金の鳥かごの周りにも緑色の光は見あたらない。
広いテーブルの端には差し入れらしい果物を盛った器が置かれていて、盗賊王はその向こう側に腕組をして立っている。
ちらとその姿をうかがった詩人は、右手の傷がきれいに消えていることを確かめて安堵したが、やはり心の距離が遠くはなれていることを知り、再び沈み込んだ。
手負いの王が纏っていた殺伐とした気配や夥しい返り血は既に水で洗い流され、黒い髪はわずかに濡れていた。
普段の王が身につけている飾りの類はすべて外されており、夜着を羽織っただけの姿がずいぶんと無防備に見えたので、あまり見てはいけないような気がして目を伏せる。
「約束通り、石の場所は教えてやる」
はっとして顔を上げると鷹王はテーブルの上に黒い箱を置き、詩人の方に滑らせて寄越した。
「その中だ。取れ」
唐突に渡されたビロード張りの箱を受け止める。
震える手で箱を開けると、そこには紅い宝石が鎮座していた。
中心から放たれる強い輝き。
眩暈がするほどの魔力。
蘇りの石は、詩人のいた世界にはあり得ない色をした大粒の ルビーだった。
「ずっと・・あなたが持っていたのですか・・」
「預けられたからな。あの悪魔の言う通りなら、次の持ち主はお前だろう。」
「これを、私に?」
「俺はその石自体に思い入れは無え。そいつは、ただ、選ばせるだけだ。」
鷹王は感情を抑えた声で言った。
一度紅い石に魅入られた心が戻ることは無く、最後の瞬間、自らの手で父を殺した。
それを後悔したことはないが、心は乾いた。
守りたかったのは、それまで世界の中心にいた父を、愛していたから。
テーブルの向こう側に立つ詩人は、石を見つめたきり動かなくなった。
異世界からの来訪者など、紅い石と変わりない幻のような物のはずだった。
「それを持ってさっさと国に帰れ。その後お前が何を選ぼうが、俺にはもう 関係無い。」
「・・・」
詩人は探し求めてきた紅い石から目を放せなかった。
心に絡みつく蠱惑的な輝き。
失った兄弟を取り戻すことが出来る力。
それが悪魔の力であることが分かっても、禍々しさは感じない。
目の前にある蘇りの石は間違いなく本物だと感じた。
(でも、この石の色は 違う ―――)
石の輝きが心をすり抜けるのを待って、詩人は黒い箱の蓋を閉めた。
蘇りの石のことを自分に話したへちゃむくれの子供の言葉が胸をよぎる。
"石の色は命の輝きそのもので、燃えるような紅い色をしています。
蘇りの石の力を使えば、あなたは過去に失った大切な人を取り戻す代わりに、心を失うでしょう"
言葉にはさらに続いた。
"選ぶのはあなた自身だけど、ひとつだけヒントをあげます"
ヒントは、有料だった。
"蘇りの石が欲しくて仕方ないあなたは、近々石の色を夢に見るでしょう。そちらが あなたの 未来 です"
対価の金貨を受け取った次元旅行者は、もみ手をしながら糸目笑いを浮かべた。
"このことは、私の主人にはくれぐれも内密にお願いしますよ"
数日後、詩人はその話の通りに、燃立つ深紅色の夢を見た。
心を揺さぶる生命力の輝き。
それは正確には石ではなく、とても大きな生き物の一部だったのかもしれない。
夢の中の紅い石は、濡れたように輝いて、きらきら光るうろこのようなものに囲まれていた。
それからというもの、夢に見た石の色が、蘇りの石の色だと信じて思い焦がれた。
アシュラ王を説得して次元を渡り、砂漠の国々を渡り歩いて季節が一巡りする間ずっと、夢の色の石を探し求めてきたのだ。
しかし、本物の蘇りの石を前にして、自分が求めていたものが、それとは別のものである事を知った。
それだけではない。
夢の中の紅い石とそっくりな色に、自分は既に逢っていた。
だけど、目的の力を手に入れた今、その思い違いになんの意味があるだろうか。
星見の王がくれた時間には意味がある。
もう、限界が近いはずだ。
「では・・わたしは行きます」
黒い箱と一緒に荷物を抱え込んだ詩人が金の竪琴に手を伸ばした時、鷹王の怪訝そうな声が響いた。
「詩人、望みの物を手に入れたのに、何故 泣く?」
突き放されたかと思えば呼び止められる。
詩人はうつむいたまま答えた。
「・・あなたに、逢ってしまったからです」
もう会えないのなら、いっそ見ないで立ち去りたい。
「俺のせいで おまえが泣くのか」
盗賊王はゆっくり詩人の方に歩いてきた。
(来ないで)
「わたしには国に帰ってやらなければならないことがあります。もう、行かなくては・・」
強く腕を掴まれた詩人は盗賊王の顔を見てしまった。
苦しげな、いままで見たことの無い表情。
見つめれたら心臓を掴まれてしまう、その瞳の色は、手にした石の色よりもっと深くて鮮やか。
まっすぐで、純粋な紅。
逃げることをあきらめた詩人は、弱々しい声で告げた。
「・・私が探していたのは、この石ではなかったのです。」
盗賊王を見上げる濡れた瞳から、涙がこぼれた。
「私が夢で見た、忘れがたい色は、あなたの瞳の色でした。」
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強い視線が一瞬だけ揺らぎ、再び詩人の瞳に留まった。
砂漠で見つけた碧い宝石。
側に置くうちに、いつしか手放しがたくなり、心を乱された。
それがたとえ幻のようなものでも、もはや迷い無く、手を伸ばす。
「それなら 忘れられなくしてやる」
詩人を体ごと引き寄せた盗賊王は吐息が触れ合う距離で言った。
「お前は 石の悪魔と 縁を切れ」
頬に触れた手が耳の後ろに回って、 唇が 重なった。
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柔らかな唇を押し開いて、その中を深く弄ると、切なげな吐息が漏れた。
詩人は終始、ローブの胸元を握りしめていた。
ようやく解放された、濡れた唇が囁く。
「どうして・・?」
伏せた金色の睫毛は震えている。
「何が」
「わたしは・・あなたの為に出来る事があればと祈りました。でも、それは、あなたが望むことではなかったのに・・」
「もう、いい」
握りしめた手と腰紐を解いて、俯いたままの詩人の肩先を撫でると、それを追って絹のような素材のローブが床に落ちた。
聖人の胸元には細い首にかかった銀のロザリオがあった。
細い肢体は薄明かりの下で白く浮かんで見え、無垢な素肌は、体の芯を痺れさせる。
「今は、何も 考えるな」
そう言って、華奢な体を抱き寄せた。
過ぎた過去やら、どうなるか分からない未来にとらわれたら、欲しいものには触れられない。
柔らかな金の髪に顔ををうずめて、苦しさをごまかした。
―― 触れてしまえば、忘れられなくなるのは自分の方だ。
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シーツの波間で抱き締め合えば、裸の体を繋げてしまうのはごく自然なことのように思えた。
盗賊王の慣れた所作は、詩人に迷う余地を与えない。
全てをゆだねて目を閉じると、乾いた風の音はもう、聞こえなくなった。
肌に落ちる雫に、詩人は薄く目を開けた。
霞んだ視界に映った褐色の肌は、つややかに濡れて光る。
情事の最中の彼の瞳は熱っぽく、艶を含んで鮮やかだ。
手を伸ばせば、折り重なるようにして口づけて、抱きしめてくれる。
丈夫そうな背中から黒い髪の生え際までの肌は、実際に触れると瑞々しく、思いのほか柔らかい。
それは、彼がまだ変化の途中の少年であることを思い出させた。
促されるままに首に手をまわす。
鍛え上げられた体のしなやかな律動。
中を探るみたいに奥深くまでほどかれて、鈍い痛みは少しづつ悦びに変わる。
腰のまわりから胸のあたりまで、さざ波みたいに押し寄せる幸福感。
詩人は甘い声で啼いた。
いつか聞いた彼の名を小さな声で呼ぶと、ぴくりと反応があった。
彼の本当の名前。
もう一度耳元に唇をよせて、その名を囁いた。
あの時傷ついた彼を見て守りたいと願い、抱きしめたいと思った。
たぶん、こんな風に。
すると、くぐもった低い声で返事が聞こえた。
「もっと声出して 呼べよ」
黒鋼・・ 黒鋼 ・・ 黒鋼 ・・ ・・
その名を呼ぶほどに、どうしようもない程高ぶって、いつしか繋がりはいちばん深くなった。
乱れた吐息が重なって、濡れた素肌の熱に、溺れる――。
全ての感覚が絡めとられて気が遠くなりかけた時、耳の後ろで声がした。
「ファイ」
その声で呼ばれると、自分の名前が特別なもののように聞こえた。
「お前が、片割れの代わりになれねえように・・お前の代わりなんて 何処にも いねえんだよ」
続いて、絞り出すみたいに囁かれた言葉。
「・・・離したくない」
―― 眩暈。
真っ白な世界が 揺れて、ファイは首に回した腕で逞しい体にしがみついた。
今この時だけ願うことが許されるのなら
「このまま・・さいごまで 離さないで ―― 黒鋼」
一瞬の浮遊感に攫われて、時が 止まる。
高みに届いた時に、彼の濡れた吐息を遠くに聞いた。
注ぎ込まれるぬくもりに、心の底まで満たされて、愛しい重みに、沈み込む。
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薄暗い部屋の中で目を覚ました。
そっと腕をほどいて、夢の余韻を残すベッドから抜け出すと、隣で眠る男は、寝返りを打ってこちらに背を向けた。
床に落ちたままのローブを拾い上げ、気だるい空気を纏った体を通す。
指先を伸ばして金の竪琴を撫でると、楽器は長い杖に姿を変えた。
身につけていた白いローブには、ライラック色で風の神の紋様が浮かびあがり、その上を、肩から頭の後ろまでをすっぽり包む、高襟のマントが覆った。
それは彼の故郷セレスの大司祭の法衣であり、水の国セレスでは、金の髪のクレリックの姿そのものが神聖の象徴だった。
天幕の外が薄青くなった。
( ―― もう、行かなきゃ)
荷物を背負った詩人は金色に輝く杖を横に構えた。
(あなたの目を見て別れを告げられない私を 許してください)
詩人は、帳の向こう側にある背中だけを、ただ、見つめた。
魔法の渦から光が溢れて、時空が揺らぐ。
(国に帰ったら、自分にできる限りの事をやってみるつもりです)
霞んで遠くなる視界が、涙で歪む。
「さようなら。 紅い瞳の 盗賊の王様 ――」
淡い紫色の光が消えると、部屋の中は何もなかったように静かになった。
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聖誕祭の夜が明ける頃、金色の光に驚いた緑色の光が、盗賊王の寝室にやってきた。
部屋の中が静かになってしまうと、妖精はいつものようにベットに横たわる王の顔を覗き込む。
紅い瞳は、ただ壁の一点を見詰めていた。
「あの人は、行っちゃったわよ。・・とても、神々しい姿で」
何も返事は無く、その横顔からは、何の感情も読み取れない。
「ねぇ、聞いてるの?黒鋼」
盗賊王の頬の上に小さな雫が落ちた。
「・・あなたはいつも、我慢ばっかり」
妖精は涙を流した。
愛しいひとの代わりに――。
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外では今日の朝日が差し込んで、天幕を明るく染め上げた。
こうして、いつもどおりに 新しい一日が明ける。
紅い石 -了-
♪お付き合いくださってありがとうございました♪